お天道さまの拝めない日はあっても、事件や犯罪が起きない日はあり
ません。人災といわれる天変地異も頻発しています。また世相といえば、
拝金主義的な思想が蔓延し始めています。さらに世界に眼を向ければ、
恐ろしい戦争や国を挙げての醜い権欲紛争が繰り広げられています。自
然界に対しても開発という破壊や汚染等、その一々を羅列するまでもな
いでしょう。このような様々な問題は検分するまでもなく明白な事実で
す。そしてこれらの主犯は、言うまでもなく人間自体であり、それは理
性に関わる問題であるということです。
理性が科学を生み、高度な文明を築き上げました。大は宇宙から小は素
粒子の領域まで、今やこれ以上ない程の発展を見せ、エネルギー開発を
はじめ、コンピューター、医学、遺伝子、さらに航空・交通等の発達に
よって、物質的・経済的両面に亘り、われわれは生活全般に多大の恩恵
を蒙っています。
然しながら、その発展の側面には上述のような問題、即ち、「核問題」
「環境・公害問題」「資源問題」、そして「精神荒廃問題」等々が山積
しているのです。すべてが避けて通ることのできない重要問題ですが、
とりわけ人間存在のあり方、つまり「精神荒廃問題」は最重要課題であ
るといっても過言ではないのです。なぜなら、すべての問題の原因は人
間の心(理性)に起因するものだからです。
上述のすべての問題は、人間自らの欲望を満足させる為に起こっている
問題です。然るに、理性を持った狡猾な人間は、自ら犯した罪や過ちに
対して詭弁を弄し、その罪や因を否定したり、責任回避に多大な努力を
労しています。そしてその善悪の由来を理性と本能の二元論に結びつけ、
本能(内的欲求)がそうさせていると主張し、罪を本能に着せ決して理
性の業として認めません。理性自らの責任を本能に転嫁しているのです。
このように、人類は言葉を獲得し理性的人間となったときから本能と仲
違いを起こし、長い歴史の中で飽くなき自己矛盾の戦いを繰り返し、善
悪の論争を展開してきました。それ故、様々な問題を引き起こし、自ら
迷いの世界を生み出してきたのです。
今、「理性と本能」、そして「善・悪」の係争、すなわち相対矛盾の
問題にケリを着けなければなりません。
何れにせよ、人類の歴史に於ける様々な問題が人間の罪である以上、そ
れらは理性で反省すべき問題であると思います。しかし理性は今、地に
落ち泥に塗れています。早急に理性が理性自身を救い上げ、その泥を拭
い去り、構築し直さなければ、人類はおろか世界までも確実に破滅させ
てしまうでしょう。
本書の目的は、理性と本能の係争の無意味さを説き、その長い歴史的紛
争に終止符を打ち、永遠の和解を成立させ、そして「自我」と「真の自
己」との融合を目指し、相対対立の超克を果たし、内心の安らぎととも
に世界の平和を目論むものです。
パスカルは、いみじくも「人間は考える葦」であるといいました。正し
く考えられない人間は、人間としての資格を失い、単なる動物になりさ
がります。否、誤った理性を行使する限り動物以下の存在になりかねな
いのです。
考えることは、本能ではなく理性の仕事です。本質的な理性(反省的思
惟)は真理真実を正しく理解し、事の善悪を判断できるはずのものです
から。理性の復権、それは人間の復興でもあり、その反省的思惟に大い
なる可能性と期待を寄せるものであります。
しかしそれは、われわれの通常思惟である「相対的思惟」に頼るだけで
は決して相対を超克することはできません。相対を超克するには、「絶
対の思惟(仏教的思惟)」を基底にした新しい思惟方法を模索すること
であります。本書はその視点に立って述べているものです。
本書は三部構成になっています。
第一部では「本能」と「理性」の両者の対話形式を採りながら、一般的
理解である本能と理性に関する常識や二律背反的認識を是正し、その正
しい活かし方や両者の融合に依る可能性や真の自己実現を目的とした絶
対の世界観を提示しています。
第二部ではその目的達成の為の根本真理としての「空」の原理を理解す
る為、龍樹の著作である『中論』に説かれる「空」を解説しています。
「空」とは、相対を離れた絶対への思考原理です。それを説き明かして
いるのが『中論』です。それ故に、この『中論』は仏教書の中でも、か
なり難解といわれるものですが、権威ある学者の解釈を引用しながら、
浅学な私が理解できる範囲で、本書の目的に沿うように活用させていた
だきました。
本書は、最初第一部だけで完結をしていたのですが、仏教の根本である
「空」の思想をもっと詳しく理解したいという要望もあって、『中論』
の「空」の理論的解説を第二部として増稿しました。更に第三部にはそ
の『中論』の実践である「四諦八正道」の修習法(「正しい生活実践」
と「正定の実践」)を詳細に解説しています。共に、少々難解ですが、
根気よくご理解いただき、実践していただければこれまでの考え方や生
き方では見えなかったもの、或いは得られなかったものが確実に手に入
れられると確信しています。
要は「考えること」が人間の人間たる所以であり、それも正しく思惟す
ることにあると思います。そして真理真実を知り、実践すること、それ
こそがわれわれをすべての迷い(苦悩)から解き放してくれる唯一の方
法であるといえます。
現代科学の知見や理論を大いに参照しながらも、人類最大の遺産である
仏教の根本原理である「空」の論理に従って、真の正しい思惟方法を身
に付け、「自我」と「真の自己」との融合を目指し、そして相対対立を
超克して絶対への悟りを体得すること、それが本書の願いであり最大の
目的なのです。
本書が、「真実とは何か」「人間とは何か」、そして「相対や論争を超
えるにはどうすればよいか」等を真剣に考える人々にとって、些かでも、
そのお役に立てれば筆者として望外の喜びとなるものです。
筆者もまた、読者と共に「真の自己」を尋ねて更に精進していきたいと、
今、心を新たに決意するものです。
―著者記す―
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