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1−20 『科学的思惟の帰結』

理性:何だかかなり怪しくなってきました。科学や論理が究極において

  破綻をきたし、人間の私という意識さえも錯角の幻影だというので

  すか?もう何が何だか解らなくなってきました。一体何が真実なの

  でしょうか?何に希望を託せばいいのでしょうか?


本能:結論を言いますと、「私」という認識主体だけが唯一の頼れるも

  のだということになります。何故なら、世界のあらゆる現象は「私」

  という主体によってしか認識できないものだからです。


   脳科学や物理学、論理や数学を概観してきて、それらが完全では

  ないと認識できました。そして最後に残された疑問は、クオリア(心

  的体験の内容:質感)を感じる「私」という主観性、つまり意識する

  「私」自体の依って起こる原因の究明です。それは現代科学のブ

  ラックホールになったということです。

   そのような状況の中にあっても、確かに考える「私」がいることは

  否定できない問題ですね。ここで思い出されるのは、デカルトの「わ

  れ思う、故にわれあり」という言葉です。デカルトは物心二元論の立

  場をとっていたのですが、精神と肉体の相互作用も認めていたとい

  う点では現代に於いても評価できるものです。


   この「私」という認識主体こそ、これまで述べてきた様々な論理的

  帰結を考えた張本人です。理性は究極において行き詰まりをしたも

  のの、人間自体の本質は、理性と本能の融合的存在だということを

  思い出してください。すべてを理性の能力で解決しようとするところ

  に問題が発生しているということを理解することです。

   東洋の賢人たちは、そのことを既に二千五百年も昔に気付き、理

  性と本能の合一を実践してきたのです。理性は決して破綻している

  のではなく、そこには限界があるということです。その限界を超えて

  いくことの方法、即ち本能を活かす実践を仏教が教えてくれるという

  ことです。


  ●「自己こそ自分の主である。他人がどうして主であろうか。自己

   をよくととのえたならば、得がたき主を得る」〈ダンマ・パダ160〉


   この、〔良く整えた自己〕こそ、理性と本能の融合的実践の目指

  すところなのです。その実践の方法は、先に述べた「瞑想」であり、

  「禅定」といわれるものなのです。


   仏教の説く「空」の教えやその実践は、考える「私」(自我)という

  ものを動かしている、その内奥の「真実の自己」(本書で魂と呼んで

  いるものですが)、を観る手段なのです。そこで得た直観智を、現実

  の「私」(自我)という世界で活かしきることが、真の主を得ることに

  なるのです。

   「瞑想」や「禅定」を神秘体験として敬遠する傾向が従来の科学

  志向にはありました。しかし今、われわれは東洋の神秘思想といわ

  れる力を借りなければならない時期にきているということなのです。

   西洋と東洋、この二極的分別は、そのまま世界を二元化してきた

  長い歴史の根本的問題でした。この二極的に異なる思想を、すべて

  を融合する「不二の思想」に包括するとき、世界は一つになり、また

  世界は開けていくものだと確信しています。


  ●『空義有るを以っての故に 一切は成ずることを得

   若し空義無ければ 一切は則ち成ぜず』(「観四諦品」二四・十四)

  ●「空の成立する人には一切が成立し、空の成立しない人には一切

   が成立しない」(「観四諦品」24・14)


   この「空」の原理は、すべての世界に妥当するものであるという東

  洋思想の達観です。

   決して容易い道ではないのですが、避けて通ることのできない道

  であることは間違いないものです。また、この道こそ新しい可能性

  が開ける明るい希望の道でもあるのです。

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