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1−19 『最新科学が示すもの』

本能:論理の究極といわれる数学における「不完全性定理」の発見や

  量子力学の「不確定性原理」は科学の行く末に暗雲をもたらせまし

  た。


   この二つの原理を簡単に説明します。

   「不完全性定理」とは、どんな理論体系にも証明不可能な命題(パ

  ラドックス)が必ず存在し、その理論体系に矛盾がないことをその理

  論体系の中で決して証明できないということであり、つまり、己自身

  で完結する理論体系は構造的にあり得ない、というのです。つまり、

  我々が理性により作り出した理論体系が真理に到達することは決し

  てないというものです。


   また、「不確定性原理」とは『ミクロな粒子の位置と運動量(質量×

  速度)を同時に正確に知ることはできない。一方を正確に知ろうとす

  ると、一方が不確定になる)』というものです。

   この量子力学が示したものは、最終的な物質の存在は原理的に

  検証することができない、つまり観測不可能であると結論するです。

   これは、今後どんなに科学や技術が進んでも避けようのない原理

  的な問題であり、その為不確定性『原理』と呼ばれているのです。

   従って、「観測しえないこと」「見えないもの」について、われわれ

  が語れることは、あくまでも「こういうふうに考えることもできる」とい

  う解釈の問題になります。

   この『不確定性原理』についての解釈も学者によって様々です。

  それらの「解釈」について、「正しいか、間違っているかを議論する」

  のは、もう既に科学の範疇ではないということになります。


   「コンピューターの父」と呼ばれるフォン・ノイマン博士が「シュレー

  ディンガー方程式という数式」をどんなにいじくりまわそうと、物質の

  状態が確定するような答えを導き出せないことを数学的に厳密に

  証明したのです。

   結局、量子力学の数式の中でも、物質の状態が一つに決まること

  はなく、やはり可能性のままだということが数学的にも証明されたの

  です。

   更に、物質の状態が確定するのは、人間が観測したときだけとい

  う事実を踏まえ、「こころ」や「意識」といった現代物理学では語れな

  い何かが、可能性の決定を引き起こしている、と本気で主張したの

  です。


〈クオリア〉

本能:また、最近の科学に追い討ちをかけるような最大の難問といわれ

  ているクオリアの問題があります。これは「主観的体験が伴う質感」

  のことです。

   この「クオリア」の問題は1990年頃、哲学者デイヴィッド・チャーマ

  ーズによって提唱されたもので、それ以降、脳科学者、物質主義者

  たちに大きな衝撃を与えたのです。このクオリアについて、一番厄介

  な問題は、今後科学がどんなに進歩しようとも、この謎を解き明かす

  見込みは不可能であると言うことなのです。


   では一体「クオリア」とは何を言うのでしょうか?(茂木健一郎氏の

  記述を借ります)

   『私たちの心の中のクオリアを「私」が見るという構造は、「私」とい

  う「主観性」(subjectivity)の構造に支えられている。「私が赤を見る」

  という心的体験のうち、「赤」の「赤い感じ」がクオリアであり、一方、

  「私が○○を見る」という構造が主観性である。

   このように、クオリアと主観性は、表裏一体の関係にある。

   クオリアの中には、階層構造がある。クオリアが階層的に集合して、

  より複雑な表象(representation、Vorstellung)が生じる。例えば、ガ

  ラスの透明な質感や、ガラスの表面の色はクオリアであり、このよう

  なクオリアが集合して、「コップ」という表象が構成される。

   クオリア(qualia)は、現在までの様々な神経生理学的データを検

  討すれば、ニューロンの活動、とりわけ活動電位(action potential)

  と呼ばれる膜電位の変化によって生み出されることは明らかである

  ように思われる。

   クオリアや主観性は、従来の客観的視点に立った物理主義の延

  長ではとらえきれない。素粒子論的な意味での「究極の法則」(Th

  eory Of Everything)が例え成立しても、それは物質系の客観的な

  記述を与えるだけだから、クオリアや主観性の問題の解明にはつな

  がらない。

   クオリアや主観性に対応する脳の中のニューロンの活動を明らか

  にし、そこにどのような対応原理が働いているのかを理解し、脳を含

  むどのような物質系に、どのような条件が満たされた時にクオリアや

  主観性が宿るのかを明らかにすることが、現在人類に与えられてい

  る最大の知的挑戦である』


   つまりクオリアとは、心的体験の内容(質感)を言い、そのクオリア

  は、それを感じる「私」という主観性によって支えられているというこ

  とです。この心的体験のクオリアや主体(私)は、どのようにして表れ

  るのかという問題は、現在の科学の範疇ではなく新しい科学のモデ

  ルの出現や、形而上学への復活を意味するということになるのです。


〈論理の矛盾〉

本能:論理哲学の天才といわれたウィトゲンシュタインは言っています。

   言葉とは、客観的な根拠によって成りたっておらず「伝統的文化的

  に決められた生活様式というルール」を根拠として述べているにすぎ

  ない。と言い、このことを「言語ゲーム」と表現したのです。

   そして、言語の限界が哲学の限界でもあると言っているのです。更

  に、『言葉で語りえないものは、沈黙せざるを得ない』と言って、論理

  の哲学を否定したのです。


   さて、次に論理の矛盾についての例え話をみてみましょう。

   『私は正直者である!』と、ある人が言ったとします。

   この人の発言が真実の場合、正直者というのは真実であって何の

  問題はありません。また、嘘であった場合、この人は嘘つきであって、

  結果として真実を言ったのであり、何ら問題はありません。共にその

  発言自体は真実となってしまうのです。

   つまり発言が、真実であっても、嘘であっても、共に真実が成立す

  るというおかしな結果を生むことになります。


   逆の『私は嘘つきである!』と言った場合もみてみましょう。

   正直者は嘘を言ったことになり、正直者ではなくなります。また、不

  正直者は真実を言ったのであり、これもまた不正直者ではなくなって

  しまいます。これは共に矛盾することになってしまいます。


   双方の命題は、自分自身について真偽を確かめようとするときに発

  生してしまうパラドックスであり、「自己言及のパラドックス」と、言われ

  ているものです。

   言語にはこのような自己矛盾の問題があり、論理的に成り立たな

  い本質を持っているということです。


   もう一つ余計なことですが・・・。全能の神の力を試すお話です。

   全能の神に、絶対に動かすことのできない石を創ってくださいとお

  願いします。そして、その創られた石を動かしてくださいと、またお願

  いします。

   さて、神はどうするでしょうか?

   動かせば矛盾が顕われますし、動かせなければ全能の力が疑われ

  ます。何れにしても神は苦境に立たされますね。絶対である神の存

  在も、実はそんなものだということなのです。

   要するに、絶対はあり得ないことを言いたいのです。


〈意識の錯覚〉

本能:これらのことは、科学や論理が為し得ない限界を示すものであっ

  て、世界は検証できない事柄で成り立っていることを認めざるを得な

  いのです。

   また、人間が存在することでしか世界も存在できないという、「人間

  原理」も科学的仮説として提出されているのです。

   すべての世界が私という体験の中にしか存在しない、つまり虚妄

  (バーチャル)や錯覚であるということを科学が暗示したということを

  物語るものです。


   更に追い討ちを掛けるような、次のような見解もあります。

   意識が本能の二次的なものとする脳科学が示すことと、上記のク

  オリアの問題を受けて、「意識とは錯覚をするようにプログラムされ

  た脳のシステムである」というものです。


   〔「私」の謎を解く受動意識仮説:前野隆司氏の概要から〕

    『人の「意識」とは,心の中心にあってすべてをコントロールしてい

   るものではなくて,人の心の「無意識」の部分がやったことを,錯覚

   のように,あとで把握するための装置に過ぎない。自分で決断した

   と思っていた充実した意思決定も,自然の美しさや幸せを実感する

   かけがえのない「意識」の働きも,みんなあとで感じている錯覚に

   過ぎない。そしてその目的は,エピソードを記憶するためである。』


    『「意識」は「無意識」のあとにやってくるというこの仮説は,なん

   だか突飛でショッキングに思えるけれども,考えてみれば天動説と

   地動説の関係に似ている。昔の人は,地球が太陽のまわりを回っ

   ているという事実をはじめは信じられなかった。地球は世界の中心

   だと思いたかった。でも,実は,地球は小さな惑星のひとつに過ぎな

   かった。これと同じだ。意識は自分の中心だと思いたいけれども,実

   は小さな脇役に過ぎないのだ。そして,そう考えれば心の謎を簡単

   に説明できるだけでなく,ロボットの心も簡単に作れるのだ。

    人間の心の大事な部分が余りにもたわいのない錯覚だなんて、

   信じたくないかも知れない。しかし、心とはたわいもなくわかりやす

   いものだと知ることは、仏教でいう悟りの境地のように,自然に生

   きることのはじまりだ。自然と共生した新しく安らかな人類の価値

   観のはじまりなのだ。人類の偉大さが失われるのではなく,人類の

   新しいパラダイムの入り口なのだ。』


   また、前野氏は別の書籍(「潮」)で次のようにも述べています。

    『「意識」とは、ニューロンが無意識下で行っている自律分散計算

   の結果を受ける存在。従って、意識は自分の中心ではなく、ニュー

   ロンの計算結果を受動的に見ているに過ぎない。それを我々は主

   体的に見ていると錯覚しているのである。故に、私とは、主体的な

   作用をしているかのように錯覚している存在なのである。要は、意

   識は、ニューロンの計算結果をクオリア(質感)として感じるための

   システムである。そこには、「知」「情」「意」「記憶と学習」は含まれ

   ない。ただ、私はこう考えたとか、こう決めたとか、こんな感情状態

   にある、ということを感じるシステムなのだ』(前野隆司)。


   以上のように見てきますと、科学と仏教が一昔前までは、互いに

  相容れない水と油のような関係であったものが、何となく仏教に科

  学が歩み寄り、仲良くしようと言っているみたいに思えますね。

   科学的論理思考は西洋の産物です。東洋の生んだ仏教は論理思

  考を超えた形而上学的世界観を持っています。それが今、融合しよう

  としているのです。何とも不思議な因縁ではないでしょうか。

   そもそも、西洋の二元論的世界観は、東洋の仏教的思想の不二の

  原理と相反するものだったのです。しかし、科学が進むにつれて、

  その論理思想は矛盾を孕み不確定性原理や不完全性定理、そして、

  科学の究極においても難問といわれるクオリアの問題を抱えて、嫌

  が上にも、物質機械論では真理を見極められないし、得策でもない

  と気付き始めたのです。

   究極、人間である「私」という主観によってしか知り得ない世界(「仏

  教的世界観」)が存在し得ると、科学は考えざるを得ない方向を指し

  示されたということなのです。

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