本能:「唯識派(瑜伽行唯識学派)」と呼ばれる一派があります。
これは、唯識の教学を唱導した学派でヨガ(瑜伽(ゆが))の実践の
中に唯識の体験を得、教理にまとめたものといわれ、インドの弥勒
(マイトレーヤ)を祖とし、無着(アサンガ)・世親(ヴァスバンドゥ)が
教学を大成したもので、日本では法相宗(ほつそうしゆう)の根本教
義となっています。
「この世の事物・現象は、客体として実在しているのではなく、人
間の心の根源である阿頼耶識(あらやしき)が展開して生じたもので
ある」とする思想です。
具体的に見てみましょう。
唯識ではこころの階層を次のように示します。
五感という感覚器官によって感受された情報を脳が認識します。
この認識の段階が意識です。意識できる意識は六識と呼ばれ、無意
識として記憶されたものや潜在化されているものを、七識(マナ識)
と呼び、これが自我を意味し、心の迷いを起こす元であるとしてい
ます。
更にその奥に八識(アラヤ識)としての意識(こころ)があると説き
ます。
ここにはあらゆる本能的な潜在エネルギーが蓄えられていて、自
身が主体的に行ったことのみならず、自然的・社会的環境から受動
的に影響を受けたことのすべてが蓄えられているのです。この点で
は民族、文化など個人を越えた面にもかかわるレベルともいえます。
ユングの集合無意識に相当するものといえます。
このような階層をなす意識構造は互いに関連し合って、心という現
象を想起します。
これに付け加えて、仏法(天台宗等)では、さらに第九識・アマラ識
を説くものがあります。これは根本浄識と呼ばれ、生命を生み出し支
え発展させる清浄な生命力そのものといえるものです。この第九識
は宇宙のすべての生命の奥底に内包され、生命と宇宙の普遍的な
「宇宙意識」ともいえるものです。
仏教全般が説く、「森羅万象悉有仏性」はこの識を象徴する言葉
です。
これに対して「中観派」と呼ばれる一派があります。インドの竜樹
を開祖として、釈尊の「空」の思想を一大論理的体系に発展させた
仏教の正統派の思想です。
この一派の思想は、本書でも詳述した「空」「縁起」「中道」を説い
たもので、「一切の現象は虚妄であり、思惟の停止によってのみ真
実が観られる」とするものです。
中観思想は、唯識に先立って展開された仏教で、唯識のようなこ
ころの多重構造は説きません。すべての実体はそれ自体で存在し
ないことを論証し、こころの起因する執着を迷妄と見て、よってくると
ころの真理(「空」)を明らかに観ることを説きます。
両者に共通する思想は、こころを内観として正しく感得すべき禅
定の実践に重きを置き、世界の一切はこころに起因して起こる現象
であり、それは虚妄に過ぎないのであって、その世界の相対の事柄
に対して固執することは迷妄に陥る。
故に、真理真実を観るにはこころ(分別思惟)を離れて、瑜伽や
禅定によって、自己の内奥をありの侭に観ることであると主張して
いるものです。
理性:一切の現象が虚妄であるとすれば、魂の存在を主張するのも、そ
のこころの迷妄に過ぎないのではないのでしょうか?
本能:そのとおりですね。こころが起こす現象を存在として見れば、それ
は虚妄でしかありません。故に、真の自己(魂の真実)というのは、
魂という存在があるのではなく、そう思わせる働き、つまり真実を悟
らせるものをいうのです。
ですから、唯識派や中間派が言う、こころのよってくるものを明らか
に観ることが、魂の真実を知るということになるのです。
そのための修行が瑜伽(ヨガ)であり禅定といわれるものなのです。
脳のダイナミズムが魂であるというのは、存在をいうのではなく、そ
の働きそのものをいうのであって、そのダイナミズムこそ、生命の本
質(魂の真実)であるということなのです。
〔注〕この存在とは「実在」のことを意味し、そのものが他のものに
依存することなくそれ自体としてあり、絶対的であるもの(絶対存在)。
従って、魂という「絶対存在」はないということです。
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