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1−1 『確執(争い)の原因』


 一般に本能的行動は良くないものと認識されていて、それ故に「本能」

は悪であり、「理性」は善である、というような善悪論や相対論をよく耳

にします。しかし、果たしてそのことは事実なのでしょうか?

 この問題について、「本能」と「理性」に登場していただき、存分に議

論してもらい、その事実関係を確かめてみたいと思います。


ところで、「本能と理性」の対話による論争を見ていただく前に、人間が

なぜ確執を起こすのかという原因について、予備知識として少し理解して

おいてもらいたいことがあります。


そもそも人間というものは、争いが本能的に好きであるかのように、或い

はゲームをしているかのように、常に争いを起こしているといえます。そ

れが単なるゲームで終わればいいのですが・・・。


 われわれはほとんどある見解(知識や基準)に基づいて行動をしていま

す(本能的衝動に依っても行動しますが)。そしてその行動の結果は、一

般的にはその国、その時代の社会規範等に照らして正邪・正誤の判定・評

価が為されます。では、論争に於ける各人の見解は、何に依って判定・評

価が為されるのでしょう。


 人々はそれぞれ自己の見解を大方は正しいものと自認しているでしょう。

その為に他人の見解を誤っているとして論争をすることになるのですが、

この場合も上述の社会規範等に照らして無事判定が下されるのでしょうか。

否です。では、その判定基準は何なのでしょうか(これが本書の重要な論

旨です)。


論争というもの、小は家庭内から一般社会のあらゆる場面で見られ、また

大は学問論争、宗教論争、そして政治・経済的論争といったあらゆる団体

間で、更には国家間に至るまで種々様々です。これらの論争が何らかの形

で収まる場合は大して問題にはなりませんが、時として紛争(実力行使)

にまでエスカレートしてしまうケースが多々あります。紛争に至らない場

合でも、やはりそこには何かしこりみたいなものが残ります。


これら論争の起こる根本の原因は、各自の見解に固執するからです。そし

て「わが説は絶対に正しい」と固執するその心の奥には、「自分の思い通

りに事を運びたい」「利益を得たい」、そして「地位や権力を獲得したい」

等々の様々な思惑や欲望が絡み合っています。また論争に敗れた場合、自

身の立場や面子がなくなるということへの保身の思いもあるでしょう。

要するに、「我欲」に縛られているからであり、それ故、より正しい見解

を自他共に求め合い、さらに向上しようとする客観性や反省的自覚が欠如

することが大きな原因です。人々が互いに主張し合う見解は客観的にみれ

ば対立し矛盾し合っている訳ですが、それでも自分の見解は正しく「絶対

だ」と言い張っています。でもそれは絶対ではなく、共に対立する限り明

らかに相対的な事柄なのです。


以上のことについて、仏教の開祖「釈尊」の言葉を引用しながら考えて見

ます。


〈論争について〉

 ★『ある人々が「真理である、真理である」というところのその見解を、

  他の人々が「虚偽である、虚妄である」という。このようにかれらは

  異なった執見をいだいて論争する。なぜに諸の道の人は同一のことを

  語らないのであろうか』


〈論争の原因について〉

 ★『かれらは自己の見解に耽溺して汚れに染まっているが故である』

 ★『欲にひかれ、願いにこだわっている人は、どうして自分の見解を超

  えることができるだろうか』


〈論争を超え、確執をなくすことについて〉

 ★『この世間の人々は多くの二つの立場に依拠している。それはすなわ

  ち有と無である。もしも人が正しい智慧をもって世間の出現を如実に

  観ずるならば、世間において無はありえない、また人が正しい智慧を

  もって世間の消滅を如実に観ずるならば、世間において有はありえな

  い。「あらゆるものが有る」というならば、それは一つの極端説であ

  る。「あらゆるものが無い」というならば、これも第二の極端説であ

  る。人格を完成した人は、この両極端説に近づかないで、「中道」に

  よって法を説くのである』


 釈尊はこのように対立する二つの見解に与しない立場、つまり一つの断

定した見解を固執せず、真理(法)に従った「中道」(相対・対立を超え

た絶対の道)を教えられています。


 そしてまた、

 ★『一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こす

  ことがない』

 ★『「わたしはこのことを説く」ということがわたしにはない。諸の事

  物に対する執着を執着であると確かに知って、諸の見解に於ける過誤

  を観て固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたしは観た』


 このように一切の見解を固執しないことが安らぎであると説かれている

のです。(この「中道」の教えは、第二部に龍樹の『中論』としてさらに

詳細を記しています)


 論争や確執には、このような諸々の背景があるということを冒頭に紹介

しました。このことをご理解していただき、先へお進みいただければ、本

書の主旨がより理解しやすくなると思います。

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